母が同じ話をする。
前の日にした話を忘れて今日も、明日も、というかんじ。年寄りあるある。
できるだけ「昨日も聞いたよ」って言わないようにしてるけど今日はついうっかり言ってしまった。傷つけた。怒らせもした。
頭ではわかるんだ。自分でもわかってるけどどうしようもないことを正論でこられたらしんどいし腹も立つよねって。
でも、私や家族の気持ちは? どこへ持ってったらいい?
飲み込めばいいんだ。うん、わかってる。
歳をとった親の言うことなんだから、黙っておだやかな気持ちで受け入れて赦せばいい。
頭ではわかってるけど、「もうババアなんだから」と母が言うように、私はまだ母をあきらめたくない気持ちがあるんだろうなあ。
母が老いていく人なのを、完全には受け入れられてないんだろう。
母はハキハキとして、シャキッとして、パワフルで、強くて、そしてとても厳しくて怖い人だった。
それが近年ではすっかりふにゃふにゃのおばあちゃんになってしまった。話がかみあわないことが多くなった。
私は悲しいんだろうか。べつにそういうわけじゃないんだけど。ときどき無性にわからなくなる。
「最後まで一緒に“いる”よ。“見る”よ」と言った。もう決めた。
私は結婚して家を出る人生を選ばなかったから、かわりに家と家族を守って母と添い遂げる。それがせめてもの義務だよ。
近ごろ「一瞬だけ、ほんの数年くらいでいいから、みんなが元気なうちに家を出てもう一度だけ、ひとりで暮らすのもありかなあ」なんて考えてもみるけど、現実的には難しいだろうなあ。
だけど母は私が家にいることを喜んでいるみたい。
私も母のためにできることをできる限りしたいと思ってる。
でもさ、昨日の話さえ忘れてしまう母に何かをすることって、意味はあるのかな。なんて思ったりもする。矛盾してるよなあ。
おいしいものを作って食べてもらったり、一緒にスポーツを観たり、誕生日や母の日にプレゼントをしたり。もういっかいみんなで旅行したい、とも思ってる。冥土の土産がほしいから。
でも忘れるかもしれない。意味、あるのかなあ?
最近ふとそんなことを考える。嫌な考えだと思う。でも考える。私だって人間だから。親が歳とった子あるある。
だいじょうぶ。わかってる。意味はある。
忘れるかもしれないけど、楽しかったり嬉しかったりあったかかった気持ちって、何らかの記憶に残るものだから。
要は母がもっと歳をとってヨロヨロになったときに「楽しかったこともあったなあ」ってほんのちょっとでも思ってもらえたらいいのだ。
そのために、私、がんばるよ。