趣味をやめたから、行くべき現地がなくなった。
現地とは、競馬場だ。
現地へ行くとは、遠征のことだ。
一時間弱のパドックと本馬場入場、わずか数分のレースとウイニングランをこの目でしかと見るために。
同じ時間と空気をわかちあい、その瞬間に立ちあうために。
北は盛岡から南は小倉まで、ほんとうにたくさん旅をした。ホームグラウンドだって仁川と淀だからちょっとした日帰り小旅行である。
船で、バスで、電車で、飛行機で、新幹線で。
幸せで楽しい旅だった。
馬以外にもいろんなものを見て感じて、食べて、さまざまな経験と体験を持ち帰ってきた。
現地があったから旅をした。
もともと旅は好きだけどしょっちゅう旅に出られるほどの稼ぎはなかった。個人的な旅行は近場ばかりだ。
だけど遠征という目的があったからこそ、よいしょと重たい一歩を踏みだせた。好きなもののためならどこへだって行けた。
信じられないくらいのエネルギーが体中からわいてきた。
いまは自由だ。
体中の力という力が抜けきっている。
もう出馬表とカレンダーを見比べてあれこれ考えることもない。ない金をどうにか絞りだすこともない。
行かねばならない現地があったころだって自分が好きで選んだのだからそりゃあずっと自由だったけれど、なにかに追われている感覚はたしかにあった。
ぜんぶの現地へ行けるわけじゃない。
現実と折りあいをつけながら注意深く取捨選択をくりかえした。
だけど納得することは難しかった。
好きなのに、好きだから、難しくなる。
行けないが行きたい。行きたいが行けない。
しょうがない。でも、何に対して? 誰に対して?
SNSでの関係性が深まれば深まるほどに、現地ならでのコミュニティにうまくなじめなくなって、ほんとうに信頼できる人以外には黙って出かけたりもしていた。
誰にも声をかけられないようSNSにも触らないようにした。
趣味のためにあるようなアカウントだったのに、おかしな話だ。
「楽しいこと」は、私にとっては「難しくて疲れる」ことでもあった。
だからかな。たとえどんなにうまくいっていたとしても、ずっとはつづかなかったのかもしれない。
どこへも行く必要がないというのは、わりと幸せなことだ。
こんなこと、あのころは夢にも思わなかった。
自分にとって価値あるものを手放して失っても、価値ある別の何かに変わるだけで、人生はつづいていく。
「趣味の現地」がなくなったいまの暮らしを、私はわりと気に入っている。
旅行へはあいかわらず、あんまり行けていない。ほんのときどき遠出をする。
趣味をやめてからは奈良と大津と淡路島へ行った。
ぜんぶ近場中の近場。だけど目の前の景色が変わるというのはそれだけで楽しい。
「応援対象を見にいく!」みたいな確固たる目的はない。観光名所やご当地メニューにめちゃくちゃ執着があるわけでもないのだ。
あえていうなら日常から離れて海や山を見にいく。「なんにもしない」をしにいく。
目的こそがすべての旅ではできなかった楽しみかただ。
趣味を手放したいま、私のこれからの人生こそが、そういういい意味で力の抜けた楽なものへと変わったのだろう。